ばあちゃんの話

私のことを一番可愛がってくれた、母方の祖母が亡くなって2週間程になる。

悲しみは癒えていない。
ちょっとでも祖母のことを思い出そうとすると心が押しつぶされそうになるから、あえて考えないようにしている。
でもそれって、あんなに大好きだったばあちゃんに対して、ひどい仕打ちじゃないか?そう思ってこの文章を書き始めた。

この文章の結びは特に決めていない。
気が済むだけ書いたらそこで終わろうと思う。
読んでいる人にとっては、ただの思い出話だろうけど、このブログの趣旨がそもそも「日常のグッときたをアーカイブ」なので、暇な人はどうかお付き合いください。

21歳の春に専門学校を卒業した私は、ろくに就活もせず、運よく拾ってもらったバイト先でその後10年近く働くことになる。
途中で契約社員に登用してもらい、尊敬できる上司にも恵まれ「社会人としてのいろは」は、全てその会社で教わった。
その10年、私はばあちゃんの家に居候をしていた。
ばあちゃんの家は大阪市内にあって、職場からも1時間以内の距離だった。
一人暮らしは両親に許してもらえなかった。
仮に許してもらえたとしても、当時の給料ではカツカツの生活を強いられたはずだ。
ばあちゃんの家に住ませてもらったおかげで、私はお金と時間の自由がきく貴重な20代の大半を趣味と遊びに費やすことができたのだ。

炊事も洗濯もばあちゃんに甘えっぱなしだった。
毎日弁当も作ってくれた。おかずはワンパターンだったけど、感謝しかない。
おかげで働いていて体を壊すといったこともほとんどなかったし、健康的で全く太らない生活を送っていた。

実は、ばあちゃんの家での生活のうち、最初の2年はじいちゃんも一緒だった。
じいちゃんは私が23歳の時に、多発性骨髄腫を発症して入院し闘病生活の末に亡くなった。じいちゃんが入院していた半年ほどは、ばあちゃんと協力し病院を往復しての看病が続いた。
じいちゃんが亡くなってからは、ばあちゃんとの二人暮らしを7年ほど。
ばあちゃんには3人の娘がいるんだけど、よく冗談で私のことを4人目の娘だと言っていた。

孫たちを等しく可愛がってくれたばあちゃんだが、私は初孫で共同生活も長かったので、特別に可愛がってもらったと感じている。

同居生活の後半は良くも悪くも遠慮がなくなり、ばあちゃんの嫌な面もいっぱい見たけど、今となっては何について怒っていたのか、具体的なエピソードは思い出せない。
ばあちゃんにしてもらって嬉しかったこと、感謝したことだけが具体的に蘇ってくるから不思議だ。

私の結婚が決まった時、一番苦しかったのはばあちゃんに報告する時だった。
遠く離れた場所で生活することになったので、ばあちゃんを一人にしてしまうことへの申し訳ない気持ちと、それでも結婚を諦めたくない気持ちで、私はわんわん泣きながら報告をした。

ばあちゃんは当然、私の決断を喜び、幸せを願ってくれた。
それで私はまたわんわん泣いた。
私の両親が、ばあちゃんとの同居を提案したが「一人の方が気楽でいいの」と固辞されてしまった。

結局それから8年間、ばあちゃんは一人暮らしを続けた。

とはいっても毎晩ばあちゃんの娘たち(母や叔母)は交代で電話をかけ、週末には家を訪問した。
正月などは長期間私の実家で過ごして、これなら同居も悪くないというようなことを口にしていた。

年をとるごとに色々なことが億劫になっているようではあったけれど、それでも87歳になるまで一人暮らしを成立させていたのだから、たいしたものだと思う。

亡くなる1週間前の週末に私の両親がばあちゃんの家を訪れ、好物を食べながら団欒のひと時を過ごしたらしい。
母が異変に気付いたのは、近所のスーパーへの買い物に付き添った時だ。
少しの距離を移動しただけで、苦しそうにしていた。
どうもここ数日身体の調子が悪く、少し動くだけでも立っていられなくなるらしい。

休み明けに病院で診察を受け、心臓の疾患を指摘された。
しかも症状がかなり進行していて緊急入院が必要なレベルらしい。
入院初日こそ、元気でお医者さんに冗談も言っていたが、そこからたった2~3日で症状はみるみる悪化し「会える家族にはすぐに会わせてあげてください」という状態になってしまった。

入院の報せを聞いたのが月曜日。
火曜日に母と電話をし、受話器越しにとてもとても弱ったばあちゃんと会話をした。
その週の週末にたまたま実家に帰る予定だった私は、「金曜日に行くから、がんばってな」と声をかけた。
電話を切った後も、モヤモヤした気分が晴れなかった。
もしかしたら間に合わないかもしれないという不安がつきまとった。
早くばあちゃんに会いたい、会えば元気になるかもしれないという期待があった。
「せめて顔だけでも見せたい」そう思った水曜日、私はものすごく当たり前で、簡単なことを思い出した。

−− LINEでビデオ通話ができるじゃないか。

なんでもっと早く気づかなかったのか。
今年の正月に帰省した時、母にせがまれてスマホにLINEをインストールしてあげた。
リテラシーのない母に操作説明をするのは非常にめんどくさかったのだけど、環境を整えておいた自分を褒めたい。
ばあちゃんに付き添っていた母に連絡し、ばあちゃんとスマホ越しに対面することができた。
これは、一昔前なら叶わなかったことだ。
もしかしたら間に合わないかもしれない、と思っていた私もこの時のビデオ通話でずいぶんと救われた。
誰にお礼を言えばいいのかわからないけど、テクノロジーに感謝した瞬間だった。

金曜日の夜に、ばあちゃんに直接会うことができた。

だいぶ朦朧としていたけど、私が会いに来たということをちゃんと分かってくれて、私の手を握って頭を撫でてくれた。

ばあちゃんと、まともに意思の疎通ができたのはこの時が最後だ。
見通しが立たないからと、一旦宮崎に帰ることを決めた日曜の昼下がり、容体が急変し、ばあちゃんは息を引き取った。

入院初日から、家に帰りたいと言い続けていたというばあちゃん。
お葬式などの日程の都合で、丸一日、家で過ごすことになった。

帰省するときは実家に立ち寄ってばかりだったので、私も久しぶりにばあちゃんの家に帰ってきた。
押入れには「そのうち片付けにくるから」と言ってそのままになっていた私の持ち物が残っていた。

ばあちゃんとのお別れをおこなうにあたり、斎場の人がやってきて母や叔母と打ち合わせをしている。
私はすっかり泣き疲れて、ばあちゃんの側でぼんやりしていた。
どうやら斎場で「家族の思い出の写真」を流すらしい。
ばあちゃんの家にあったアルバムを広げて、母たちが思い出話に花を咲かせながら写真の選別をしていた。

ばあちゃんはじいちゃんと一緒に、それぞれの孫専用のアルバムを作っていた。
私の分もちゃんとある。
葬式の前に一旦宮崎へ戻った私は、家から「omoidori」を持ってきていた。
じいちゃん、ばあちゃん、家族と写っている昔の写真をいつでも見れるようにデジタルで残しておこうと思ったのだ。

「ちはるの思い出」と書かれたアルバムを広げて、どんどん写真をスマホに取り込んでいく。

作業的にこなしていたのだけど、一枚の写真で涙が止まらなくなってしまった。

抱っこされている赤ん坊が生まれて間もない私だ。
ばあちゃんと、じいちゃん。それから母。
カメラマンはたぶん、私の父だ。

ばあちゃんは、私を抱っこして、すごく優しい眼差しで私を見つめてくれている。
私が生まれてから、金曜の夜に頭を撫でてくれた時まで、ずっとこんな風に愛情を注いでくれたのだ。

そろそろ締めくくりたいと思います。

ばあちゃんの葬式の時、お坊さんがすごくいい話をしてくれた。

「息をひきとる」という言葉がある。
一般的には命を終える時に使われるのだけど、残された人たちが亡くなったその人の「最後のひと息」を引き取る(受け取る)という捉え方もできるのだという。
「息」という字は、「息を弾ませる」とか「息を吹き込むとか」感情が込められた色々な慣用句に使われている。
そして漢字の中にもある通り、息には人の「心」が入っている。
つまり、息をひきとるということは亡くなった人の「心」を、残された人たちが受け取るのだと、そういう話だった。

なるほど、私は「ばあちゃんの息を引き取った」のだ。
ばあちゃんからもらった心を大切に生きていきます。ありがとう。

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2 件のコメント

  • あなたの心の中に、おばあちゃんが生きてます。それも幸せそうに・・・
    声をかけたら、直ぐ傍に寄ってくれるおばあちゃんが居ます・・・
    ありがたいですね。

  • chihaco へ返信する コメントをキャンセル

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